「心肺蘇生はしないで」が救急現場で叶わない現状:岡山大学の全国調査が示す最期の希望と救急医療のギャップ

終活

序論:最期の希望と救急医療の乖離

人生の最終段階において、「心肺蘇生はしないでほしい」という個人の意思表明は、その方の尊厳と自己決定権の尊重に深く関わる重要な要素です。特に、がんの終末期や老衰など、回復の見込みが低い状況では、心肺蘇生が身体に大きな負担をかけ、かえって苦痛を増大させる可能性も指摘されています。このような背景から、本人や家族があらかじめ心臓が止まった際の心肺蘇生を希望しない旨を意思表示するケースが増加しています。

しかしながら、実際に心停止が発生し、救急要請が行われた場合、日本の救急隊は原則として心肺蘇生を継続しながら病院へ搬送する体制となっています。これは、救急現場において本人の明確な意思を確認し、心肺蘇生を中止するための全国共通の仕組みが十分に整備されていない現状に起因します。このギャップは、患者の最期の希望と、現在の救急医療体制との間に存在する深刻な課題を示唆しています。

国立大学法人岡山大学医学部の田邉綾客員研究員らの研究グループは、この重要な課題に対し、全国規模での実態調査を実施しました。本研究は、救急隊が心肺蘇生を中止できる「手順」の整備状況とその機能性を全国で初めて明らかにし、患者の最期の願いを尊重する医療の実現に向けた具体的な課題を提示しています。

岡山大学による全国調査の結果、患者の「心肺蘇生はしないで」という最期の希望が救急現場で叶わない現状と、救急医療とのギャップを主題とした資料。岡山大学医学部の田邉綾客員研究員が紹介されている。

本研究の背景と目的

人生の最終段階における医療(End-of-Life Care, EOLC)は、患者のQOL(Quality of Life)を最大限に尊重し、尊厳ある最期を迎えることを支援する医療実践です。その中で、事前指示書(アドバンス・ケア・プランニング, ACP)は、患者自身が将来の医療に関する意思を事前に表明する重要な手段として位置づけられています。特に、心肺蘇生を行わないというDNR(Do Not Resuscitate)またはDNAR(Do Not Attempt Resuscitation)の指示は、延命治療の選択において中心的な役割を果たします。

しかし、日本の救急医療現場においては、心停止患者に対する心肺蘇生は救命を目的とした標準的な医療行為であり、DNR/DNAR指示の存在が救急隊の活動にどのように反映されるべきかについては、統一された見解や運用体制が確立されていませんでした。多くの消防本部では、救急隊が現場で心肺蘇生を中止することに対する法的な根拠や具体的な手順が不明確であり、結果として、DNR/DNARの意思表示があったとしても、原則として心肺蘇生を継続し、病院へ搬送せざるを得ない状況が常態化していました。

このような状況は、患者の自己決定権の尊重という倫理的側面だけでなく、不必要な心肺蘇生が患者とその家族に与える身体的・精神的負担、さらには医療資源の適正配分といった社会的側面からも、喫緊の課題として認識されていました。そこで、岡山大学の研究グループは、全国の消防本部および救急活動の医学的な質を管理するメディカルコントロール協議会を対象に、救急隊が心肺蘇生を中止できる「手順」の整備状況と、その手順が実際にどれほど機能しているのかを全国規模で初めて調査することを目的としました。この調査を通じて、日本の救急医療における終末期ケアの現状を客観的に把握し、今後の改善策を検討するための基礎データを提供することを目指しました。

調査方法の概要

本研究では、全国の791の消防本部と、地域の救急活動における医学的指導・助言を行うメディカルコントロール協議会を対象に、アンケート調査を実施しました。調査項目は多岐にわたり、主に以下の点に焦点を当てていました。

  • 救急隊が心停止現場で心肺蘇生を中止できる「手順」の有無

  • 当該手順が整備されている場合の具体的な内容と、その運用状況

  • 過去1年間に当該手順が実際に使用された件数

  • 「心肺蘇生を望まない」という意思が示されていた心停止事例における救急隊の対応(心肺蘇生の継続の有無、搬送先の病院など)

これらの詳細なデータを収集することで、救急現場におけるDNR/DNAR指示の取り扱いに関する全国的な実態を包括的に把握し、整備されている手順が形式的なものに留まっていないか、あるいは実際に機能しているのかを評価することが可能となりました。

全国調査から明らかになった実態

本研究によって、日本の救急現場におけるDNR/DNAR指示の取り扱いに関して、複数の重要な実態が浮き彫りになりました。これらの結果は、患者の最期の希望と救急医療の現実との間の深いギャップを示しています。

「心肺蘇生を望まない」意思と現実のギャップ

調査結果で最も衝撃的だったのは、「心肺蘇生を望まない」という明確な意思が示されていたにもかかわらず、その患者の約7割(3,308件中2,352件)が、心肺蘇生を受けながら病院へ搬送されていたという事実です。この数字は、個人の自己決定権が救急現場で十分に尊重されていない現状を如実に示しており、倫理的な問題提起に繋がります。患者が望まない医療行為を継続することは、患者本人だけでなく、その家族にとっても精神的な負担となり得ます。

救急隊による心肺蘇生中止手順の整備状況

次に、救急隊が現場で心肺蘇生を中止できる「手順」の整備状況についてです。全国561の回答消防本部のうち、この手順を保有していたのは約半数の265本部(47%)に過ぎませんでした。これは、依然として多くの地域で、DNR/DNAR指示に対応するための明確なガイドラインやプロトコルが欠如していることを意味します。地域による医療体制の差が、患者の最期の選択に影響を与える可能性が示唆されます。

手順の運用における課題:実施ギャップの存在

さらに深刻な課題として、「手順」を持つ消防本部においても、その半数(52%)が過去1年間に一度も当該手順を使用していなかったことが明らかになりました。これは、「ルールを作ること」と「実際に使うこと」の間に大きな溝、すなわち「実施ギャップ」が存在していることを強く示唆しています。手順が整備されていても活用されない背景には、以下のような要因が考えられます。

  • 法的・倫理的懸念: 救急隊員が心肺蘇生を中止することに対する法的責任や倫理的な判断への不安。

  • 家族の意見の不一致: 家族間での意思の相違や、現場での感情的な状況により、中止の判断が困難となるケース。

  • 医師との連携不足: 事前指示書の内容を現場で確認し、医療機関と連携して中止の判断を下すためのスムーズなプロセスが確立されていないこと。

  • 教育・訓練の不足: 手順があっても、それを適切に運用するための救急隊員への教育や訓練が不十分である可能性。

これらの課題は、単にルールを整備するだけでは不十分であり、そのルールが現場で円滑に、かつ確実に機能するための多角的なアプローチが必要であることを浮き彫りにしています。

この画像は、「手順」(事前指示書など)の有無によって、心停止時の終末期医療の対応がどのように変わるかを示すフローチャートです。手順がない場合は本人の意思に反して蘇生・搬送が継続される可能性がある一方、手順がある場合は本人の意思に沿った看取りが可能になるプロセスが示されています。

研究グループによる考察と提言

本研究の結果を受け、岡山大学医学部救命救急・災害医学の田邉綾客員研究員は、その意義と今後の方向性について以下のように述べています。

「心肺蘇生は救命に有効な治療ですが、体力の落ちた高齢の方には、肋骨骨折を伴うこともある、身体への負担が大きい処置でもあります。『心肺蘇生を望まない』という意思は、その方の最期の願いです。すべての方に一律に心肺蘇生を行うのではなく、その願いを受け止め、穏やかな最期を支えることも、救急医療の大切な役割だと考えています。ご家族の『もしものとき』をどうするか、元気なうちに話し合っておくことが、願いを叶える第一歩になります。」

眼鏡をかけた笑顔のアジア人男性が、青いスクラブを着て腕を組み、救急車を背景に立っています。医療従事者らしきプロフェッショナルな雰囲気を醸し出しています。

このコメントは、心肺蘇生がもたらす身体的負担への配慮と、患者の「最期の願い」を尊重することの重要性を強調しています。救急医療は単なる救命に留まらず、患者の尊厳を支え、穏やかな看取りを実現する役割も担うべきであるという、現代医療における重要な視点を示しています。

研究グループは、今回の調査結果から、「ルールがない」ことに加え、「ルールがあっても現場で使われていない」という二重の課題を克服する必要があると提言しています。本人の「最期の願い」を社会として受け止めるためには、単に心肺蘇生中止のルールを整備するだけでなく、そのルールが救急隊、医師、介護施設、そして家族といった関係者すべてが迷わず、そして円滑に使えるような実用的な仕組みを構築することが不可欠です。

具体的には、以下のような取り組みが求められるでしょう。

  • 全国的なガイドラインの策定: 事前指示書の内容を救急現場でどのように取り扱うか、統一された法的・倫理的ガイドラインを策定すること。

  • 多職種連携の強化: 救急隊と医療機関、介護施設、地域医療従事者との間の情報共有と連携体制を強化し、DNR/DNAR指示の確実な伝達と確認を可能にすること。

  • 救急隊員への教育と訓練: DNR/DNAR指示への対応に関する専門的な教育プログラムを充実させ、現場での判断力と倫理観を醸成すること。

  • 国民への啓発活動: 人生の最終段階における医療に関する国民の理解を深め、元気なうちからのACP(アドバンス・ケア・プランニング)の重要性を啓発すること。

これらの提言は、患者中心の医療を実現し、個人の尊厳が最期まで守られる社会を築くための重要な一歩となります。

学術的意義と今後の展望

本研究の成果は、2026年9月1日に国際医学誌『Resuscitation Plus』にオンライン掲載されました。これは、日本の救急医療における終末期ケアに関する実態を国際社会に提示し、今後のグローバルな議論に貢献するものです。

論文情報

  • 論 文 名: Implementation gap in prehospital termination-of-resuscitation policies for out-of-hospital cardiac arrest with do-not-attempt-cardiopulmonary-resuscitation wishes in Japan: a nationwide survey

  • 掲 載 誌: Resuscitation Plus

  • 著  者: Ryo Tanabe, Takashi Hongo, Tsuyoshi Nojima, Hiromichi Naito, Atsunori Nakao, Tetsuya Yumoto

  • D O I: https://doi.org/10.1016/j.resplu.2026.101474

本研究は、日本の救急医療体制におけるDNR/DNAR指示の実施ギャップを明確に示した点で、学術的に高い意義を持ちます。この知見は、今後の政策立案や医療ガイドラインの改定、救急隊員教育プログラムの開発において重要な基礎データとなるでしょう。また、国際的な視点から見ても、各国が直面する終末期医療の課題解決に向けた示唆を与えるものと期待されます。

研究資金について

本研究は、岡山県地域医療介護総合確保基金を活用した医療介護連携体制整備事業として、岡山県医師会の支援を受けて実施されました。このような地域と連携した研究活動は、地域社会の医療課題解決に貢献する国立大学の役割を果たすものであり、その重要性が改めて認識されます。

関連情報

岡山大学および関連機関は、本研究のような社会貢献活動に加え、様々な分野で先進的な取り組みを推進しています。

岡山大学とその関連機関である岡山大学病院、そして「J-PEAKS」、「TOP GLOBAL UNIVERSITY JAPAN」、「Japan. Committed to the SDGs」といった複数のロゴとテキストが並べられた画像です。大学のグローバルな取り組みやSDGsへのコミットメントを示しています。

岡山大学は、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」を支援しており、政府の第1回「ジャパンSDGsアワード」特別賞を受賞しています。また、文部科学省「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)」に採択されるなど、地域と地球の未来を共創し、世界の革新の中核となる研究大学としての役割を強化しています。

青空の下、岡山大学病院の建物と隣接する駐車場が広がる様子を捉えた航空写真です。病院の看板や駐車場の案内表示が見えます。

その他の関連情報については、以下のリンクをご参照ください。

岡山大学が文部科学省の「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)」に採択されたことを告知する画像です。地域と地球の未来を共創し、世界の革新の中核となる研究大学の実現を目指す岡山大学の取り組みが紹介されています。

岡山大学の那須保友学長が、SDGsとの連携を通じて、地域と地球の未来を共創し、持続可能な社会の実現を目指す大学のビジョンについて語る様子を示す画像です。

岡山大学のロゴマークと大学名、英語表記、そして「世界への扉を開く」というスローガンが記載されています。大学のブランディングを示す画像です。

結論:最期の願いを尊重する社会へ

岡山大学の研究グループによる全国調査は、日本の救急医療現場における「心肺蘇生を望まない」という患者の最期の希望と、実際の医療提供との間に存在する深刻なギャップを明確に示しました。この調査結果は、単にルールを整備するだけでなく、そのルールが現場で確実に機能するための多角的なアプローチ、すなわち「実施ギャップ」の解消が不可欠であることを強く訴えかけています。

個人の尊厳と自己決定権が尊重される社会の実現には、医療従事者、患者、家族、そして社会全体が、人生の最終段階における医療について深く議論し、共通の理解を醸成していく必要があります。本研究が提起した課題は、日本の終末期医療、ひいては社会全体の医療倫理を再考し、より患者中心の、そして人間らしい最期を支える医療体制を構築するための重要な契機となるでしょう。

今後、国レベルでのガイドライン策定、多職種連携の強化、そして国民一人ひとりのACPへの意識向上が進むことで、誰もが安心して最期の希望を託せる社会の実現が期待されます。岡山大学の研究グループは、この重要な課題に対し、引き続き学術的な貢献を続けていくことでしょう。

この記事を書いた人
終活専門ライター:榊原郁美
榊原 郁美

40代前半のウェブライター。関東在住。大学卒業後、出版社で編集アシスタントとしてキャリアをスタートし、記事制作や校正業務に携わる。その後、一般企業の広報部門へ転職し、社内外向けのコンテンツ制作や情報発信を担当。「読み手に伝わる文章」を追求する中でライティングスキルを磨く。

結婚・出産を機に働き方を見直し、在宅で活動できるフリーランスのウェブライターへ転身。現在は、ライフスタイル、子育て、ビジネス、キャリア、健康・美容など幅広いジャンルで執筆している。丁寧なリサーチと、読者目線に立ったやさしく分かりやすい文章に定評がある。

SEOを意識した記事構成やキーワード選定にも対応可能で、オウンドメディアやブログ記事、コラム執筆などを中心に活動中。クライアントの意図を汲み取りながら、信頼感のあるコンテンツ制作を心がけている。

趣味は読書と散歩、季節の料理づくり。日常の中にある小さな発見を大切にしながら、暮らしに寄り添う文章を発信している。

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